国宝の鎧が2つも実在。櫛引八幡宮は、八戸の歴史を語る重要なカギ
南部、八戸藩の総鎮守として重視されてきた櫛引八幡宮には、八戸にある国宝3件のうちの2件が所蔵されています。「赤絲威鎧」や重要文化財の本殿など、屈指の文化財の宝庫である櫛引八幡宮を紹介します。
八戸の3件の国宝のうち2件が櫛引八幡宮に!
櫛引八幡宮は、奥州藤原氏討伐で戦功を挙げた南部光行が、糠部郡の土地を賜った際に、出身地である甲斐国(現在の山梨県)の八幡大明神を六戸瀧ノ沢村に移したのが起源とされています。
のちに現在の櫛引村に社殿を移転し、櫛引八幡宮と称したそうです。以後、八戸市民だけでなく全国的に厚い信仰を受け、“やわたの八幡様”として親しまれています。例大祭で行われる神事の流鏑馬も有名で、正月には市内外から参拝客が訪れます。
櫛引八幡宮の境内には「国宝館」という宝物館があります。青森県内の3点の国宝はすべて八戸にありますが、その内の2点「赤絲威鎧」と「白絲威褄取鎧」がここに保管されているのです。
国宝:赤絲威鎧兜・大袖付(あかいとおどしよろいかぶと・おおそでつき)
重量感のある造りと色彩が鮮烈な印象を受けます。兜と大袖には力強い“一”の文字があるため、“菊一文字の鎧兜”と呼ばれており、春日大社の赤絲威鎧(国宝)と双璧を成す傑作
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時代:鎌倉時代
重要文化財指定:大正4(1915)年3月26日
国宝指定:昭和28(1953)年11月14日
胴高:33.3cm
兜鉢高:11.5cm
大袖高:36.4cm
CHECK① 繊細かつ大胆な、金工技術の最高峰
黒、金、赤の色彩のコントラストが素晴らしい。これは金籬金物と呼ばれる意匠で、細密で極めて完成度が高く、鎌倉時代の金工の技術が最もよく表れています。
CHECK② 細かすぎる金物細工。これ単体でも芸術品
兜の部分には八重菊模様の金具が。この金具だけでも鑑賞に値するほど精密な手仕事がなされており、デザインも優れています。武士の美意識の高さを物語っているようです。
CHECK③ 数百年前の作とは思えない、鮮やかな赤い糸
赤い糸が至るところに使われていますが、鎌倉時代の鮮やかな色彩が良好に残っていることに驚きます。糸の質の高さと、鎧を大切に引き継いできた人の想いが感じられます。
国宝:白絲威褄取鎧兜・大袖付(しろいとおどしつまどりよろいかぶと・おおそでつき)
赤い糸が至るところに使われていますが、鎌倉時代の鮮やかな色彩が良好に残っていることに驚きます。糸の質の高さと、鎧を大切に引き継いできた人の想いが感じられます。
白を基調とした鎧で、赤絲威鎧と比較すると精緻な金具や細工も精緻な雰囲気があります。後村上天皇から拝領したものと伝えられ、のちに根城南部家10代の光経が奉納しました
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時代:南北朝時代
重要文化財指定:大正4(1915)年3月26日
国宝指定:昭和28(1953)年11月14日
胴高:33.3cm
兜鉢高:11.5cm
大袖高:44.2cm
CHECK① 目を凝らして兜を見てみると……
兜に注目してみてください。一見すると薄暗くてわからないですが、実は細やかな文様が施されているのです。大胆な赤絲威鎧に対し、こちらの意匠には緻密さが感じられます。
CHECK② 武士らしくない!?上品な色遣いが秀逸
紫、薄紫、黄、萌黄、紅糸などで褄取りを施しています。全体に用いられている白い糸もなんとも上品で、気品に満ちています。南北朝時代の武将の趣味嗜好を感じることができます。
CHECK③ 袴の部分の糸も当時のままに残る
白い糸は総じて変色しやすいですが、この鎧は当時の色がよく残っています。摩耗している箇所もあるものの、全体として保存は良好です。ここでも、丁寧な仕事をした形跡が見て取れます。
CHECK④ 背面まで抜かりなく作り込まれている
後ろから全体を見た姿も上品な造りです。ここまで細工が施され、作り込まれた鎧は特別な場面で着用されたと考えられますが、着用時のわかりやすい派手さよりも、端正な美しさを意識したのかもしれません。
櫛引八幡宮が守り続けた八戸に息づく鎧の美
権禰宜の營田賢さん。長い歴史と共に市民と歩んできた櫛引八幡宮。その敷地内にある「国宝館」には八戸が誇る数多くの文化財が収蔵されており、その管理を行うのも營田さんの仕事
なぜ、八戸にこれほど見事な鎧が伝来しているのかを、権禰宜の營田賢さんが説明してくれました。
「室町時代、この地域を治めていたのは南部の一族でした。八戸は優良な馬の産地として知られ、中央で質の高さが評価されたという記録も残っています。中央とのつながりが深かった縁で、鎧は南部氏が戦の褒美として入手したといわれています」
そもそも鎧は武具であり、実用品でもありますが、同時に着用者の威厳をも表す意匠が求められました。細部の装飾や技巧を見れば、当時の職人技の粋が詰まった芸術品と呼ぶにふさわしいことがわかります。
營田さんは、赤絲威鎧は鎌倉時代の金工技術の最高峰だと言います。
「金具の豪華さが目を見張り、鮮やかさも当時の鎧の中でも随一で、武士の美意識を感じさせます。漢字の一が描かれていますが、これは“天下一”を意味するとされます。重量が40kg近くあるため、戦場で着ていたとは考えにくく、儀式や晴れの舞台など、特別な場所で着用するものだったと考えられます」
櫛引八幡宮は、ほかにも国宝の「白絲威褄取鎧兜」、重要文化財の「紫絲威肩白浅黄鎧」、「唐櫃入白絲威肩赤胴丸」なども展示されている、文化財の宝庫です。
なぜここまで優れた文化財が櫛引八幡宮に集中しているのか、營田さんが解説します。
「八戸は他から侵略されたことがなく、これまで奇跡的に大規模な戦乱に巻き込まれませんでした。戦火に見舞われることがなかったため、貴重な品物が残されました。櫛引八幡宮に伝わる宝物は、長きにわたって平和で安定した時代が続いていた証なのです。この先何百年と歴史が続くためにも、ずっと守り続けていきます」
南部氏が寄進した荘厳な社殿にも注目
河童伝説にちなむ河童像。八戸では“メドツ”と呼ばれる
八戸市民の初詣の定番スポットである櫛引八幡宮。境内には、南部藩や八戸藩の歴史を伝える歴史遺産が多数現存します。
拝殿は昭和59(1984)年の建築。旧拝殿も境内に現存しており、重要文化財
櫛引八幡宮に一層の風格をもたらしているのは、木々が生い茂る社叢と、境内を構成する重要文化財指定の社殿群です。
本殿を筆頭に多くの社殿は、盛岡南部の28代・重直が寄進したものです。東北地方で、江戸時代初期の彫刻や建築技術の粋を集めた社殿が、これほどまとまって現存する神社は極めて少ないため、必見と言えます。
朱塗りの鳥居をくぐった先には橋が架かり、その先にある南門は江戸時代の建立で重要文化財
江戸時代初期、南部氏は盛岡に拠点を移していました。しかし、建立の経緯を知れば、八戸を重んじていたことがよく分かると營田さんが解説してくれました。
「南部氏は当社へ社殿を寄進するにあたり、盛岡から大工を派遣し、資金も自ら工面したとされます。ちなみに、当時は南部家の祈願所で、一般の人は敷地の外の祈願所までしか立ち入りは許されませんでした」
中央に見劣りしない本格的な社殿
池にある河童像。神社を造るために伐り出した木の寸法が違うと投げたところ、木が河童に変わったという伝説がある
東北地方の社寺仏閣の建築には、地方色が濃厚に表れます。屋根を茅葺きにしたり、積雪を考慮して勾配を急にするなど、地域の事情に合わせた独自の構造で作られた例も少なくありません。
本殿は江戸時代の建築ながら桃山時代の気風を残す。透かし彫りの彫刻が秀逸
ところが、櫛引八幡宮の社殿群は、“南部一之宮”に相応しい意匠が追及され、中央の神社建築と遜色ない規模で作られているのです。八戸に本格的な神社を建てたいという、南部氏の意気込みを感じることができます。
屋根の曲線の美しさも本殿の特徴。かつては色が塗られ、華やかな造りだったと推察される
このようにして、櫛引八幡宮は江戸時代中期にも広く名を知られる存在となりました。鎌倉時代から江戸時代まで、八戸に優れた文化が開花していたことを櫛引八幡宮は私たちに教えてくれています。
国宝をはじめとする貴重な文化財が守り継がれる櫛引八幡宮。ぜひ足を運び、その魅力を肌で感じてみてください!
| Written by 八戸本編集部
『八戸本』を制作した出版社「EDITORS」は、2021年2月に民事再生の申立てを行った「エイ出版社」から「街ラブ本シリーズ」『世田谷ライフ』『湘南スタイル』『ハワイスタイル』など、エリアに特化した出版事業を譲受した後継会社です。八戸市出身の編集者を中心に制作を進めた『八戸本』は、「街ラブ本シリーズ」の最新作として2022年12月に発行されて話題となり、たちまち重版。観光目的だけでなく、八戸に暮らす人、八戸で働く人、八戸を故郷に持つ人、八戸を愛するすべての人に向けた本です。この街の魅力を、ぜひこの一冊を通して再発見してください。『八戸本』は、八戸市内の主要書店で大絶賛発売中です。
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