八戸市内に残る
「義経北行伝説」

local_offer

義経北行伝説とは

 平安時代末期、時の権力者であった平氏打倒の最大の功労者・源義経。その後、兄・源頼朝と対立し、奥州藤原氏を頼って平泉に落ち延びたものの、頼朝の追及から逃れることができず、自刃したと言われています。

 その源義経が、実は平泉から密かに脱出して海路八戸に入り、北海道、樺太、モンゴルへと移って成吉思汗(チンギス・ハーン)になったという「義経北行伝説」。八戸市内には、義経が立ち寄ったと言われる場所が古くから伝えられており、800年以上経った現在でも市民に受け継がれています。

 

1.熊野神社

平泉を逃れた義経主従は、気仙の港から海路を北上。種差海岸に上陸して休憩した場所または八戸上陸の地と伝えられている。

2.源氏囲内(げんじかこいない)

 海路を舟でやってきた義経一行は、八戸の浦へ上陸し、白銀の村に一時仮住居を定めることにした。このあたり白銀に残る「源氏囲内」という地名は「源氏の屋敷」との意味だったといわれ、義経一行が館越に居を移す前に法官(ほうがん)氏の世話で住んでいたところであるという。法官という姓は、義経が一向に世話を焼いてくれた者に「今後、判官と名乗るがよい」と申し渡したが、判官と名乗るのは差し障りがあるというので法官と改姓したといわれている。

3.館越(たてごし)

 当地方に伝えられている伝説によれば、平泉を逃れた義経が岩手県北から海路を北上して新井田川をさかのぼり、最初に舘を構えたのが館越だという。義経一党は一年余り館越に住んだ後、高館に移られたといわれている。

4.高館(たかだて)

 「類家稲荷大明神縁起」(おがみ神社所蔵)によれば、八戸に到着した義経は現在の館越に小さな居を構え一年余り住んでいたが、さらに周辺を調べさせた結果、この地が遠くを見渡せ、前方も広く開けていることから将来は人家にも田地にも利用できる場所であるとし、引越しを決めてここに居住した。家来たちはこの地を「高館の御所」と呼んだという。

5.ほたる崎

 当地方に伝えられている伝説によれば、八戸に上陸した義経は高館に住んだが、その高館より東北の州崎の下通りは五月頃から夜になると蛍火が多く遍満し、これを見た義経が大変面白く思い「ほたる崎」と名づけたといわれている。

6.矢止めの清水(やどめのしみず)

 当地方に伝えられている伝説によれば、平泉を逃れ北に向かった義経主従は、海伝いに八戸に上陸し高館に住んでいた。そのころ、家来の弁慶に矢を射させた。矢は馬淵川(まべちがわ)を越え三千メートルをへだてたこの大地に深く突き刺さった。引き抜いたところ、清水がコンコンと湧き出したことから、この地名を「矢止めの清水」といわれるようになった。昔からこの道端を往来する人ののどを潤すとともに銘酒「稲川」の酒造りの水としても使用され続けてきた。

7.おがみ神社

 ひそかに北へ逃れた義経は、八戸に上陸し市内の高館に住んだといわれている。元久年間(1205)に義経婦人(京の久我大臣の姫君)が亡くなったあと京ヶ崎に葬り、法霊大明神とあがめられた。おがみ神社がその場所だといわれており、義経夫人が使用したと言われている手鏡や、八戸の義経伝説の記録「類家稲荷大明神縁起」(るいけいなりだいみょうじんえんぎ)が所蔵されている。

8.三八城神社と弁慶石(みやぎじんじゃとべんけいいし)

 義経が高館の場所から見渡して馬淵川の東の野原を京ヶ原、その北の洲先を京ヶ崎と命名したのが今の三八城山である。足下のこの大きな石は弁慶石と呼ばれ、昔は境内南側のコブシの木のあたりに置かれていたという。石の所々が人間の大きな足型のように窪んでいるのが、力自慢の弁慶が岩に印した足型だといわれている。

9.小田八幡宮(こだはちまんぐう)

 八戸に上陸した義経は現在の高館に住んだといわれている。その時、この宮に義経が持参した毘沙門天の像を八幡の神に合わせ奉ったともいわれ、また家来と共に奉納した大般若経の写経と経箱が現在も奉られている。

10.小田村(こだむら)

 「類家稲荷大明神縁起」(おがみ神社所蔵)によれば、義経が鞍馬から持参した毘沙門天の像を祀った小田八幡宮の前通りに、義経自らが小さな田を段々に開いていったことから「小田」と命名されたという。義経が住んでいた場所はこの地に程近い高館山の西方にあったといわれている。

11.藤ヶ森稲荷神社(ふじがもりいなりじんじゃ)

 義経は平泉から北へ逃れ八戸に上陸し、市内の高館に住んだといわれている。その時、義経は家来の常陸坊を京都へ派遣し、日頃信心している藤ヶ森稲荷を観請することにした。京都の稲荷神社から土を一握り持参させ、その土を埋めさせたところに作ったお宮が「藤ヶ森稲荷」である。それは建久2年(1191)の5月のこと。義経はしばしば高館から参詣に訪れ、その時、装束の烏帽子・狩衣などを置いた場所が烏帽子屋敷=(ぼっち屋敷)の名前の起こりといわれている。

12.帽子屋敷(ぼうしやしき、ぼっちやしき)

 「類家稲荷大明神縁起」(おがみ神社所蔵)によれば、藤ヶ森稲荷を祀ったこの地に参詣するために、高館からの往来も大変だろうということで、義経をはじめとして、家来たちはめいめいに茅ぶきの小屋を建てた。この茅ぶき小屋が家の形に類似していたので「類家の者ども」と呼ばれた。また、一行が参詣した折に装束烏帽子や狩衣などを置くところがなかったため、お宮の外に仮杭を立て、それらを掛けておいたことから「帽子屋敷」と呼ばれた。現在は、芭蕉堂公園になっている。いずれも藤ヶ森稲荷ゆかりの地名といえる。

13.長者山(ちょうじゃさん)

 当地方に伝えられている伝説によれば、平泉にいた義経に命令された板橋長治と喜三太が義経の居所をこしらえようと柴を回し、木を植えみだりに人が入らないようにした地と伝えられており、昔は長治山と呼ばれていたといわれている。

Visit View