八戸歴史探訪:
縄文と南部のロマン薫るまち

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 縄文時代から江戸時代、そして現在に至るまで、八戸はこの地方の拠点として栄えてきました。その歴史や文化は現在の八戸にも脈々と受け継がれています。

八戸の縄文文化

 およそ2万年前、旧石器時代から人が住んでいたと言われる八戸地方。縄文時代には、縄文時代後期を代表する是川遺跡や風張遺跡などから発掘された数多くの出土品、大規模な集落跡が示すとおり、多くの人々が暮らし、繁栄したと考えられています。

 国宝「合掌土偶」をはじめとする芸術性の高い出土品が多いことも特徴。出土品は八戸市埋蔵文化財センター是川縄文館に展示され、古の記憶を現在に伝えています。

» 是川縄文館(八戸市埋蔵文化財センター)

戸(のへ)の成立

 青森県の南部から岩手県の北部にかけて残る「戸(のへ)」のつく地名。「戸」は集落や行政区画を意味するとされ、平泉の奥州藤原氏の支配の中で成立したと考えられています。「戸」は馬の牧場であるという説、蝦夷支配のための基地であるという説も。

現在も残る「戸」の付く地名

一戸…岩手県一戸町・二戸…岩手県二戸市・三戸…青森県三戸町・五戸…青森県五戸町・六戸…青森県六戸町・七戸…青森県七戸町・八戸…青森県八戸市・九戸…岩手県九戸村
※四戸は現存していませんが、八戸市八幡の櫛引八幡宮周辺のことだと考えられています。

八戸に伝わる「義経北行伝説」

 八戸市内には、平氏打倒の立役者・源義経が立ち寄ったと言われる場所が古くから伝えられており、800年以上経った現在でも、伝説として市民に受け継がれています。

 

八戸の祖・根城南部氏

 八戸と南部氏の関わりは、南北朝時代、甲斐国(現在の山梨県)の南部師行(なんぶもろゆき)が根城(ねじょう)を拠点とし、根城南部氏を開いたことに始まると言われています。以来、根城南部氏は八戸地方を統治するとともに、南部氏の総領である三戸(盛岡)南部氏の重臣として重要な役割を果たしてきました。

 建武元年(1334)に築城された「根城」は、本丸など八つの区画からなる平城で、寛永4年(1627)に遠野に移封されるまでの約300年間、八戸地方の中心として栄えました。根城跡は「史跡根城の広場」として復原整備され、安土桃山時代の根城の様子を現在に伝えています。

» 史跡根城の広場
» 南部氏が八戸地方に入ったときから続くといわれる「八戸えんぶり

八戸藩の誕生、そして八戸市へ

 江戸時代に入ると、根城南部氏は盛岡藩初代藩主・南部利直によって遠野に移封され、領主を失った八戸は盛岡藩の直接の支配下に置かれました。利直は交通や交易の要衝であった八戸の整備を自ら行い、現在でも市日町が特徴的な町並みの基礎は、この頃に築かれたと伝えられています。

 盛岡藩二代藩主・重直が世継ぎを決めないまま江戸で死去したため、寛文4年(1664)、幕府は重直の弟に盛岡藩8万石を次弟の直房に八戸藩2万石を与え、八戸藩が独立した藩として誕生することとなりました。その後、ききんや災害を何度も乗り越えながら八戸藩は9代まで続き、そのたくましさは明治時代の八戸県、昭和の八戸市誕生へと受け継がれていきます。

» 八戸藩時代から続く祭礼行事「八戸三社大祭」

コラム「八戸にある3つの国宝」

国宝「合掌土偶」

 両膝を立てて座り、手のひらを合わせた姿の土偶。その写実的な姿は、縄文時代当時のならわしをイメージさせ、子孫繁栄など様々な願いへの“祈り”が感じられます。
他の土偶にはみられない非常に珍しい姿であること、良い状態で発見されたこと、土偶の形状が当時の風俗を考える上で極めて高い価値をもつことなどから、2009年に国宝に指定されました。(今から約3,500年前、縄文時代後期後半。風張1遺跡出土。)

(所蔵/是川縄文館

国宝「赤糸威鎧」
(あかいとおどしよろい)

 鎌倉時代末期の典型的な鎧とされ、装飾の豪華さにおいて日本を代表する甲冑の一つと言われています。大袖と兜に菊一文字の装飾があり、「菊一文字の鎧」としても有名です。

(所蔵/櫛引八幡宮

国宝「白糸威褄取鎧」
(しろいとおどしつまどりよろい)

 南北朝時代の代表的な鎧とされ、白糸を地糸に、紫・薄紫・黄・萌黄・紅糸などの糸を施した様は、気品の高さを感じさせます。根城南部氏・南部信光公が後村上天皇から拝領したものと伝えられています。

(所蔵/櫛引八幡宮

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